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祖国に届け モンテンルパの歌

                
                  $子どもへ伝える大切なもの


日本人が知っておくべき真実の歴史です。

昭和20年8月15日にポツダム宣言の条件を受諾して、
日本は降伏しました。

日本の大東亜戦争とは何だったか軽く説明します。


まず当時のアジアの状況です。

グアム、ハワイアメリカ領
フィリピンアメリカ領
東インド(インドネシア)オランダ領
インドシナ(ベトナム、カンボジア、ラオス)フランス領
マレー半島(マレーシア、シンガポール)イギリス領
インド(インド、ミャンマー、スリランカ、モルディブ、パキスタン)イギリス領



白人世界が支配したアジアに対して、日本は人種の平等を唱えました。

しかし米、英は反対

アジアの植民地支配に苦しむ周辺諸国民に教育、産業、農業を与え、
仁政をひいて植民地からの自力独立をサポートしました。

必然的に欧米列強と日本との間に摩擦が起こり(ABCD包囲網など)
大東亜戦争が始まった。

例外は除き、日本はアジアの人々と戦争したのではありません。
アジアに駐屯していた、白人と戦っていたのです。

あの蒋介石率いる国民党軍も米英が支援していました。

日本は、圧倒的な工業力の差で戦争に敗れ本土は焦土化しましたが、
アジアの解放と民族独立という夢を実現しました。
戦争には負けましたが、目的を果たしたという事です。

それが大東亜戦争です。



この昭和20年8月15日は戦争が終わった日ではなく、
日本軍の組織的戦闘が終結した日です。

戦勝国は無抵抗になった日本に徹底的に報復します。
それはなんと昭和27年4月28日のサンフランシスコ講和条約まで続きます。



例えばソ連。

8月10日 ポツダム宣言の受諾を連合国へ伝達
8月11日 ソ連、南樺太の国境を侵犯し侵攻
8月18日~31日 ソ連、カムチャツカ半島方面より千島列島に侵入
8月25日 南樺太を占領
8月28日~9月1日 択捉・国後・色丹島を占領
9月 3日~9月5日 歯舞群島を占領



日本はソ連と日ソ中立条約を結んでいましたので、
ソ連の行為は明らかな条約違反です。
しかも、日本はアメリカとの和平の打診を
ソ連に仲介を頼んでいたのにも関わらずです。



満州に侵攻したソ連は、107万人もの日本人を極寒の地で強制労働させ
約40万人を死亡させました。


また、戦勝国が敗戦国を裁く裁判で約1000人以上の日本人が死刑に処されます。
多くの人はデッチ上げの罪で裁かれました。
彼らには妻や子供もいましたが、遺骨さえも家族の元に届けられなかったといいます。






前置きが長くなりましたが(笑)
その収容者の多くの命を救った
渡辺はま子さんという歌手のお話です。
(ご存知の方はゴメンなさい)



フィリピンにモンテンルパという所があります。
ここにはインチキ裁判で日本人がニュービリビット刑務所に収容されていました。




この刑務所から、当時流行歌手である
渡辺はま子さんに一通の封書が届きます。


その中には楽譜と短い手紙が入っていました。
楽譜の題名は「モンテンルパの歌」で
作詞は代田銀次郎、作曲伊東正康と書いてありました。

二人はニュービリビット刑務所で戦犯として死刑判決を受けていた人物でした。




遠い異国の地で、ふるさとの日本を想い無念の気持ちで刑を待つ日本人
111名の望郷の念を込めた曲でありました。




モンテンルパの夜は更けて
つのる思いにやるせない
遠い故郷しのびつつ
涙に曇る月影に
優しい母の夢を見る

燕はまたも来たけれど
恋し我が子はいつ帰る
母の心はひとすじに
南の空へ飛んでゆく
さだめは悲し呼子鳥(よぶこどり)

モンテンルパに朝が来りゃ
昇る心の太陽を
胸に抱いて今日もまた
強く生きよう倒れまい
日本の土を踏むまでは




渡辺さんはすぐにビクターレコードに持ち込み
「ああモンテンルパの夜は更けて」と名付けて
レコード化します。これが日本で大ヒットします。


封書が届いたのが6月そして大ヒット
そして12月には渡辺さんはニュービリビット刑務所に尋問に訪れます。


刑務所に渡辺さんの尋問ステージが設けられます。
往年のヒット曲を歌い、ステージ終盤であの「ああモンテンルパの夜は更けて」を歌います。


この曲を聞いた100人近くの収容者は、故郷を思い出し、無念の思いで死んでいった仲間を思い出し、皆感極まって涙します。作詞者の代田さんも作曲者の伊東さんも涙を流します。


そして最後は大合唱となりました。みんな涙を流しながら歌いました。



その後、渡辺さんの思いと歌がフィリピン大統領を動かし、
収容者は帰国出来る事になります。
故郷を想う気持ち、心に伝わるメロディーが、
多くの人の命を救ったのです。

wiki参照



今まで日本人は先の戦争とまったく向き合ってきませんでした。

しかし、戦後体制が日本の問題点である以上
真の意味で先の戦争の総括無しに日本の発展はありません。

経済的に豊かになっても、中身はボロボロです。
しかもその頼みの経済力も昨今ぐらついてきています。



異国の地で  どれほど日本に帰りたかったか

異国の地で  どれほど冤罪の無念さを噛みしめたのか




戦争を風化させないという事は

先人たちが一生懸命生きた証を

風化させないという事でもないでしょうか



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泣けます・・・・歌いましょう   「ああモンテンルパの夜は更けて」


ミッドナイトエクスプレスの夜

ジョバンニとカムパネルラとが乗った 銀河鉄道

$子どもへ伝えるもの

宮沢賢治の銀河鉄道の夜
悲しい話ですけど、幻想的で宮沢ワールド満載です。
不思議な銀河鉄道ですよね。

もうひとつ
僕の大好きな本に「深夜特急」という本があります。
作家 沢木耕太郎氏のノンフィクションの大傑作です。
すでに売れていた作家としての日本の生活を一切やめ
インドのデリーからロンドンまで乗り合いバスで行くという話です。

学生時代の僕は読みながら胸を躍らせたものです。
深夜特急は=ミッドナイトエクスプレスという事です。
ミッドナイト・エクスプレスとは、トルコの刑務所に入れられた外国人受刑者のあいだの隠語で、
脱獄することを「ミッドナイト・エクスプレスに乗る」と言ったそうです。

日常(刑務所)から逃れて、
自由気ままな旅をする(ミッドナイトエクスプレスに乗る)
というタイトルです。


本にちょくちょく出てくるのですが
「ユーラシア大陸を横断する幻のバスある」
僕は読みながらワクワクしたものです。

謎の知る人ぞ知る
不思議なバスが、真夜中出発する


僕の解釈ですが
白人のヒッピーが長い旅の中
疲労と故郷の懐かしさを思う心境が
トルコの受刑者の心境ともかけてあり
そこから抜け出す為のは
幻のバスに乗れれば一気にヨーロッパまで帰れる。
それは「ミッドナイトエクスプレス乗る」ということである。

TV版は大沢たかおが主演しています。
興味のある方は見てくださいね。
ただし、仕事を辞めて旅に出たくなるので要注意ですw




実は65年前、日本の大阪でも不思議な
「ミッドナイトエクスプレス」が走りました。


それは1945年3月の大阪大空襲の時です。
その時、心斎橋、難波は火の海でした。

しかも時間は深夜です。
何処へ行ってもあたりは火が立ちあがっています。
つまり逃げ道が無かったのです。

この時間はもちろん地下鉄の駅は扉が閉まって入れません。
しかし、動くはずの無い時間に電車に乗り
梅田や大黒町に逃れた人の証言が複数あります


しかし、この戦争末期の資料は残ってなく
証拠は人々の証言だけです。
しかも1997年になって調査を始めたので
決定的な証拠がありません。


証言を集めると次の通りです。


12歳だった近藤豊子さんは祖父母と両親と兄弟5人と
安全な場所を探しているうちに母と祖父とはぐれてしまいます。
御堂筋に着くと地下鉄心斎橋駅の出入り口が開いていた。
やがて到着した電車で梅田へ避難したが
はぐれた母と祖父とは二度と会えませんでした。

心斎橋周辺で駅に逃げ込み、
「梅田の方は燃えていない」と誘導されて乗車しました。

空襲直後に駅構内に入り、
「一番電車が出る」と言われて乗車した。
(こちらは天王寺駅行きに乗ったという証言もある)

閉鎖されているはずの駅に
「憲兵が中に入るよう指示した」(心斎橋駅)

「閉鎖されているはずのシャッターが開いていた」(本町駅)

しかし、関係者の証言はあまりなく
「特別なことがあれば業務引継のとき必ず報告があるが、そうした話題は出なかった」
と言っています。

不思議な事に
終電のあと送電は止めることになっていました

当日心斎橋変電所に勤務していた職員が
「指示があって電車を動かす電気を送り続けた」
と言っています。

誰かが指示したという証言はありません。
誰が指示したのでしょう?

また、深夜に電車が走ったと思われる電流計器の動きがあったという
元職員の証言もあります。

ほんとに不思議です。
しかしその幻の電車のおかげで助かった人々がいるのは事実です。

その日ミッドナイトエクスプレスは確かに御堂筋を走ったのです




この時の大阪の死亡者は1万人にのぼります。
新聞社の調査では東京大空襲はもっとひどく一晩で
死亡・行方不明者は10万人以上といわれています。

何故これだけ被害が大きかったか理由があります。
まず米軍は日本家屋が木と紙で出来ていることに注目し
新型の焼夷弾を開発しています。

焼夷弾とは、爆発力より燃焼力が強い爆弾です。
焼夷弾の中身はゼリー状のガソリンです。

米軍はあらかじめテキサスに日本家屋の街を作り
大規模な延焼実験をしています。

それを日本の本土爆撃に使用しました。

まず、B29の先発部隊が爆撃目標の周囲に焼夷弾を投下し
住民を猛火の中に閉じ込めて退路を断ちます。


その後から約100万発(2,000トン)焼夷弾が投下されました。

逃げ惑う市民には超低空のB-29から機銃掃射が浴びせられました。


対日無差別爆撃を指揮したルメイ自身証言しています。
「もし我々が負けていたら、私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。
幸い、私は勝者の方に属していた」
と語っています。

原爆は広島と長崎にわざわざ種類の違うウラン型とプルトニウム型を
和平交渉中の日本をはねのけてまで、わざわざ落とす意図
有色人種ゆえの人体実験です。



南の島々で指揮官が死んでも最後の一兵まで
玉砕された理由がうかがえます。

なんとか足止めを

ふるさとを残してきた妻を子供を

そしてあの美しい日本を

少しでも時間を稼げるなら


 
ほんの65年前のおはなしです。


見ないようにしていても
僕らはもっと過去と向き合う必要がありますね


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